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神々の黄昏・・Deutsche Oper Berlin・・2017/4/17 [オペラ]

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ConductorDonald Runnicles
ProductionGotz Friedrich

Siegfried Stefan Vinke
Gunther Seth Carico
Alberich Werner Van Mechelen
Hagen Albert Pesendorfer
Brunnhilde Evelyn Herlitzius
Gutrune Ricarda Merbeth
Waltraute Daniela Sindram
1st Norn Ronnita Miller
2nd Norn Irene Roberts
3rd Norn Seyoung Park
Woglinde Martina Welschenbach
Wellgunde Christina Sidak
Floshilde Annika Schlicht
ChorusChor der Deutschen Oper Berlin

 トンネル・リングの最後の公演。
 奥行のあるトンネルはスケール感がありながら閉塞感もあり、奥に見えるトンネルの口から射す光が残された希望のようでした。
 終了後このトンネルの運命はどうなるのでしょう?どこか引き継ぐ劇場があればそれに越したことはないのでしょうが、これだけ奥行のあるセットとなるとなかなか難しそうです。別に前の記事で書いた蛇足の続きではないのですが、博物館で展示して誰でも通り抜けられるようにしたら大人も子供も皆ジークフリートやブリュンヒルデ気分を味わえて素敵です。奥行がかなりあるように見えるのですが、奥へ行くほどトンネルの半径は小さくなっているので、実際に通り抜けてみると意外とトンネルの長さは短いと感じるかもしれません。普通は「博物館に入る」とは後世に伝えるべき遺産として認められるということですが、この演出のセットだったらそれだけの価値がありそうです。それでもやはりこれだけ大きいものだと難しいのかもしれません。

 歌手の人達は全員、最後の公演ということで気概と緊張感を持って好演してましたし、コーラスも以前聴いた『ローエングリン』のときのようにグチャグチャに聞こえるというほどではありませんでした。

 この最後のリングを鑑賞しにきた観客は亡きゲッツ・フリードリッヒの遺産を敬愛してやまない愛好家が多く、オケのレベルだの音響だのは二の次でよいのです。

 終了後は別れを惜しむ沈黙が続き、カーテンコールは盛大に盛り上がったのは言わずもがな。

 伝説と言われるほどの名演出が終わってしまったという喪失感と5日間という短期間でリングを通しで鑑賞できたということの満足感、同時に忍耐が終わった解放感も押し寄せた[猫]でありました。

 ここは以前から大衆歌劇場という印象はありましたが、特にワーグナーについては見る劇場であって聴く劇場ではないです。[ふらふら]
 ワーグナー以外を聴いたときはほとんど気にならないので、ここはオーケストレーションが複雑でないイタリアものなどのオペラとバレエの公演に特化したほうが良いのではないかと思うほどですが、オケのレベルや音響がどうのこうのとブツブツニャーニャー言う[猫]のようなものはお呼びでないというだけのことかもしれません。
 よって、ここにワーグナーを聴きに足を運ぶことは2度とないとまでは言いませんが、当分遠慮しておきます。

 思いがけず何人かの方々とお目にかかれたのは幸いでした。

 

パルジファル・・Wiener Staatsoper・・2017/4/16 [オペラ]

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DIRIGENT Semyon Bychkov
REGIE UND BÜHNE Alvis Hermanis

Amfortas Gerald Finley
Gurnemanz Kwangchul Youn
Parsifal Christopher Ventris
Klingsor Jochen Schmeckenbecher
Kundry Nina Stemme
Titurel Jongmin Park
1. Gralsritter Benedikt Kobel
2. Gralsritter Clemens Unterreiner
1. Knappe Ulrike Helzel
2. Knappe Zoryana Kushpler
3. Knappe Thomas Ebenstein
4. Knappe Bror Magnus Tødenes
1. Blumenmädchen/1. Gruppe Ileana Tonca
2. Blumenmädchen/1. Gruppe Olga Bezsmertna
3. Blumenmädchen/1. Gruppe Margaret Plummer
1. Blumenmädchen/2. Gruppe Hila Fahima
2. Blumenmädchen/2. Gruppe Caroline Wenborne
3. Blumenmädchen/2. Gruppe Ilseyar Khayrullova
Stimme von oben Monika Bohinec
 
 この日リングはお休み。シラーでは『影のない女』でしたが、同じ演出をスカラで既に見たのでパス。エッセンの『預言者』とウィーンの『パルジファル』でどちらに行くか少しだけ迷いました。ウィーンの演出が以前と同じだったら間違いなくエッセンへ行ったのですが、ウィーンが新演出ということで5日間連続ワーグナーづくしに決めました。

 ヘルマニスの演出はウィーンにあるオットー・ワーグナー病院が舞台。グルネマンツとクリングゾルは医者、クンドリは精神を患っている人という設定ですが、現れたパルジファルの鎧にマントという姿はまるでタイムスリップしてきたようでした。舞台セットは中央に扉があって、その上にDie Zeit(時)と書いてあったことと、聖杯が脳だったことがポイントである気がします。Die Zeitという文字が今回の席からはセットの死角になって見えないことが多く、途中で見えたときにすぐにはピンとこなかったものの、見終わってしばらくして、そういえば書いてあったと思い出し以下のように解釈するに至りました。
 
 この演出が伝えたかったことは・・・時を超えて大切に守り敬うべきは人間の英知と精神
 
 パルジファルとクンドリは時を超えた存在。クンドリもパルジファルを誘惑する場面ではタイムスリップしたような衣装に替わり、最後の儀式でもこの扉から出てくる人々の中に古代の衣装を身に着けた人が混ざってました。映画だったらぼかしを入れたりしてタイムスリップを表現するところでしょうが、舞台だと少々違和感がなきにしもあらずではあります。
 グルネマンツは精神科医、クリングゾルは外科医という様相でしたが、二人とも治療の一環としてパルジファルを利用したというところで、その点ではグルネマンツ医師は失敗、クリングゾル医師が成功したということです。
 クリングゾルは悪者ではなく、クンドリに接するのもあくまで治療といったところで、シュメッケンベッヒャーもしっかりと歌っているものの、悪い印象を残すような歌い方ではありませんでした。アンフォルタスの傷が頭にあったのは、クリングゾル医師の医療ミスということでしょうが、パルジファルが聖槍を手にする場面は日本人が見ると・・・聖槍は脳トゥングか?・・・とツッコミたくなるものだったのもちょいと奇妙ではありました。ただクリングゾルはパルジファルを襲うどころか、聖槍を取ってくださいとばかりの動作を取ったのです。
 このように違和感やツッコミたくなるような場面がしばしばあり、理屈っぽい面もありますが、鑑賞する側に解釈する余地がある演出は悪くありません。アンフォルタスは死に、クンドリは死なずにDie Zeitと書いてある扉から去っていくというエンディングでしたが、クンドリが向かったのは過去か未来か?想像におまかせといった趣向も悪くないものでした。
 ワーグナー作品を同じ姓であるワーグナーが設計した病院を舞台にしたというだけでなく、時代設定がフロイトが生きていた頃ということでウィーンの人達にとっては更に意味深い演出なのかもしれません。
 
 カーテンコールで最も賞賛されていた歌手はユン。医者という設定は明晰に歌うユンの良さが光ってました。
 ベテランのヴェントリスの声の若々しさは数年前聴いたときより声にハリがあるかと思えたほど。
 クンドリがロールデビューのシュテンメはきれいすぎるという感想もあるようですが、声が重くなってきている感があり、きれいすぎるというほどではないと思えました。ただこの役はメゾの方が暗さ、翳りがあって合うという気はします。
 花の乙女たちはパルジファルの台詞Dies Alles – hab ich nun geträumt? どおりに夢の中の人達のようでしたが、髪型や衣装が少々薹が立った感があってピンとこない感じはしました。
 
 DOBのリングの途中で聴いたウィーンの演奏は正にオアシス。ビシュコフにも盛大な賞賛がありましたが、1幕では他の理由でストレスを強いられてしまったのが無念。途中で観客席からピッピッと電子音がしばしば聞かれ、その方向を見るとなんと写真を撮っているではありませんか(vv。。マナーを知らない一見さんと遭遇する機会がしばしばあるのがこの劇場のネックになるところです。1幕だけで2幕以降は集中できたのが不幸中の幸いでした。



 以下蛇足です。
 最近読み替え演出について否定的な評論を目にしたので、時を超えて守り敬うべきは人間の英知と精神といったこの公演の内容に絡めて書き残しておきます。

 評論は「博物館に入れる」ことへの考察とはなっているのですが、演出が無政府状態と批判し、
>「博物館に入れてはいけない」と主張する人にかぎってオペラを、それが誕生したコンテクストから引きはがして「博物館」に放りこんでいる
との内容には違和感しかありませんでした。無政府状態が良くないのなら取り締まる組織を作れということなのか?表現の自由はないということなのか?考えようによっては読み替えも博物館に入れる価値があるともとれるかもしれませんが・・・・。
 全く説得力のない評論でありましたが、読み替え演出を嫌う人達は原典にこだわりすぎて現代に生きる人間の英知と精神を軽視する傾向があるのではないでしょうか?
>ヴェルディ作品について時代設定や場所を変えてはヴェルディが作品に込めた精神性を含めた世界観から遠ざかる
とも書いてありましたが、こういう人はヴェルディの世界観はこうあるべきというものがあって、他の見方は認めないという排他的精神の持ち主としか思えません。地域限定でしかヴェルディの世界観は存在しえないのか?同じような経験をしている人達がその時代、土地と重ねることもいけないのか?どこか分からない、いつの時代か分からないことにして一般化することでより多くの人の共感を誘うこともあるのではないか?ある人にとっては意味不明であっても、深い意味を感じ取る人もいるのではないか?そういった可能性を考慮できないのは作品の可能性だけでなく鑑賞する側の知識や想像力をも過小評価しているのであって、このような批判はどれだけ見識があろうと宝の持ち腐れ、想像力の貧困さを露呈しているにすぎません。答えが一つしかないものに興味を持つでしょうか?知的好奇心を奪われることほど空しいことはありません。制作する側が思いもよらない深い意味を鑑賞する側が見出すことだってあるかもしれません。もちろん人それぞれ作品によって良し悪し、合う合わないがあるのは当然ですが、さまざまな解釈や感想があることこそが健全なのです。原典と伝統も尊重されるべきものではありますが、読み替えも同じように尊重されるべきものであって、自身の拘りや固定観念で関係ない読み替えと断定し、滑稽とまでいうのは偏狭的な見方と言わざるをえません。逆手にとれば滑稽だからこそ面白いという場合だってあって良いとさえ思います。
 このようなことは現在のドイツとイタリアの現状を鑑みれば既に答えは出ていることであって、今時の読み替え演出批判こそ滑稽のような気もします。
 今まで良いと思えたヴェルディ作品は全て読み替え演出でありました。演出家を目指す若者達も伝統重視だけで土地、時代を変えてはいけないなどの制約を課せられてやりがいを持ち続けることができるでしょうか?博物館に入るというのは古い伝統的な演出を指しているのではなく、制作する側にしろ鑑賞する側にしろ興味を持つ人が減少し、やがて上演機会が失われることへの警告なのです。

 基本的にオペラ、楽劇の本質は音楽、つまり聴覚こそが重要で演出は視覚です。作曲家の英知と精神を無視して本質を逸脱し阻害することは、悲劇の途中でファンの集いがごとくアンコールをやらかしたり、音楽無視でブラヴォーや拍手をかぶせたりすることで、そういった点で作曲家が気の毒で聴きに行きたくないというのがヴェルディに興味を持てない一番の理由ですが、この辺はムーティ先生からお説教していただきたいくらいです。一方視覚である演出は全員がムーティ先生と同じ考えである必要はないと考えますし、いろいろあるからこそ興味深い、つまり多様性こそが求められるのです。
 聴覚が阻害されないかぎり、作曲家や台本家の精神は守られるというのが個人的見解であり、演出は現代人が作曲家と台本家と時を超えて共同制作できる場所なのです。

 なぜか蛇足のほうが理屈っぽく力入ってしまいました<(_ _)>オペラが博物館で展示されるだけになってもイタリアという国は他にも魅力で溢れているのでなんら問題ではないでしょう。それでも他の国へ活躍の場を求めて出て行った人達も祖国へ戻りつつあります。時代は常に流れているもの。ドイツ語圏も供給過多ぎみなので、かつての賑わいを取り戻すこともあるやもしれません。