So-net無料ブログ作成
検索選択

デュオ リサイタル・・・Berliner Philharmonie・・・2015/4/1 [コンサート・リサイタル]

VIOLINE
Gidon Kremer
KLAVIER
Denis Kozhukhin

Mieczysław Weinberg Sonate Nr. 2 op. 95 für Violine solo
Johannes Brahms 7 Fantasien Op. 116 für Klavier
--
Mieczysław Weinberg Sonate Nr. 3 op. 126 für Violine solo
César Franck Sonate A-Dur für Violine und Klavier FWV 8

 ハンブルクからベルリンへ向かう列車が悪天候のためキャンセル。昼過ぎの列車でなんとか移動できたものの、ベルリンはときおり突風、雨、あられの悪天候。飛行機も欠航が多いにちがいなく、公演の出演者も移動できずにキャンセルする人がいてもおかしくない状況でした。

 案の定、アルゲリッチはキャンセルになってしまいましたが、理由は病欠とのこと、会場のフィルハーモニーでは払い戻しを受け付けていたため、ケーロケロとカエル人もチラホラ。[猫]はカエル人になるはずはなし。

 バイオリンやピアノのリサイタルを聴くことは普段皆目ないもので、最初の曲などは
チャカチャカキューキューってなんだかテキトーに弾いてる? ←不埒<(_ _)>
とネコに小判状態。。。。。。それでも超一流の技がくりだす美しい音色の多彩さには恐れ入りました<(_ _)>ピアノとのアンサンブルも美しく、アルゲリッチは残念でも満足でした。







死の都・・・Hamburgische Staatsoper・・2015/3/31 [オペラ]

Musikalische Leitung Simone Young
Inszenierung: Karoline Gruber

Paul Klaus Florian Vogt
Marietta / Die Erscheinung Mariens Meagan Miller
Frank / Fritz Lauri Vasar

 ファークト劇場といった公演。
 もともとパウルの想像という内容で一人芝居的要素が大きい作品ではありますが、最後まで喪失感から抜け出ることができない演出とあって、さらにその印象が強くなっていた公演でした。もちろんフォークト以外の他の出演者も演出の意図にそってそれぞれ上手く演じていたこともあって、舞台上で汗だくになっているのはパウル一人であるがごとく観客に印象づけていたという面もあります。

 『死の都』といえば1年前に新国で鑑賞し、大震災に思いを巡らせたものでした。こうして震災のあった3月に再び鑑賞することになり、今回も思い起こすかと思ったのですが、最後までパウルは喪失感の中から抜け出ることなく終わるというかなり重い演出に、すぐには思い起こすことはありませんでした。しかし、現実はこのパウルのように喪失感から抜け出すことができない人たちも少なからずいるに違いありません。結局のところ、やはり震災の喪失感に思いをめぐらすことにはなったのですが、それが適切なのか否かは分かりません。適切でないとしても、『死の都』を観たら震災のことを思い出すことになるのは避けられそうにありません。

 フォークトについてはローエングリンが人間のマネしてるといったところが見受けられるかと思ってましたが、両手を合わせたくなるような神々しさは微塵もありませんでした。歌っているというよりも、喪失感から自分を見失いそうな感情のほとばしりといったところで、難曲といわれる作品であるようには全く感じられないものでした。
 歌える人にしか歌えない世界があるからこそ興味をもって聴きたくなるものです。

 前日のバーデンバーデンの祝祭劇場がデッドぎみだったせいか、演奏は爆演といった印象でしたが、歌手の声もよく通る劇場で、いろんな意味で圧倒された公演でした。
 それにしてもやはり不思議くんだなー・・・と思ったのは、カーテンコールでのフォークトの涼しげな表情があまりにパウルと違うので、「あれ?パウルをやっていた人と違う人がカーテンコールに出てきた」と思えてしまったことです。

バラの騎士・・・Festspielhaus Baden-Baden・・・2015/3/30 [オペラ]

DSCF7388(2).jpg
Sir Simon Rattle Musical direction
Brigitte Fassbaender Director

Anja Harteros The Marschallin
Peter Rose Baron Ochs
Magdalena Kožená Octavian
Anna Prohaska Sophie
Carole Wilson Annina
Clemens Unterreiner Faninal
Lawrence Brownlee A Singer
John In Eichen Policeofficer
Irmgard Vilsmaier
Philharmonia Chor Wien
Berliner Philharmoniker
Cantus Juvenum Karlsruhe

 バラはそれほど好きではない演目ながら、ベルリンフィルのオペラ公演は機会が少ないだけに希少価値という特別感があって聴きに行きたくなるものでした。
 バーデンバーデンは2回目ですが、演目は同じ『バラの騎士』で、前回はパリからの日帰りだったのですが、帰りの電車の時間があるのにもかかわらず、大詰めの演奏がやたらトロトロとねちっこく、「お願いしますよ~~~。どうかひとつトットとやってくれませんかね」と聴いていたのを思い出します。

 前回の席は最上階だったのですが、大きな劇場とあって今回は前方で聴いてみたく席をとってみました。ところが、ここの平土間前方の席は舞台よりかなり低く、見上げる姿勢で鑑賞しなくてはならず、少々びっくり。
 これは歌手の声が頭上を通り抜けてしまうと思ったらやはりその通り。それでもハルテロスとローズは全く問題なく届いてきていて、ワーグナーも歌う歌手とそうでない歌手との声の通り方の違いが歴然といったところでした。
 おまけに舞台セットが背後が紗幕で映像が映し出されるというもの。考えてみると以前ここで観たバラの騎士は背後が鏡や壁で反響版になるようなセットに囲まれていたのに今回はそういったものが見当たらず、紗幕の後ろにあったのかもしれませんが、あったとしてもかなり舞台後方だったのではないかと思われ、あまり歌手にやさしい演出ではなかったように見受けられました。結局のところ、現代的でスタイリッシュではあっても見た目が殺風景な演出だったことと、オクタビアンとゾフィーのカップルがコンパクトな印象になってしまって少々物足りなさに繋がってしまいました。

 それでも聴きにきた理由であるベルリンフィルの演奏は、特に誇張することなく、そのままの美しさで勝負といったもので、楽器の音が混濁することなく明晰に奏でられた音楽はさすがでした。
 惜しかったのは例のごとく・・・・イースターフェスティバルでこういった大きな劇場の場合、世界中から観光客(自分も観光客ですけど)がいて、幕に反応する人がいること。一幕終了時、音楽が終わる前に幕が閉まりはじめて、パチパチ・・・・あ~~~~と思っていたところ、すかさずシッシッ攻撃をしてくれた人たちがいてそれが効果覿面。地元の観客は無配慮な拍手がくるであろうタイミングもシッシッ攻撃が効果があるというも熟知しているかのようでしたが、おかげさまで長く響くバイオリンの一音は拍手がかぶることなく聴くことができました。それはフッと息を吹けば切れてしまう蜘蛛の糸がごとき一音。この音をどう表現するかはこの作品のハイライトのひとつと思っている人もいるはず。
 幕を閉めるタイミングは演出家も拘るところだとは思いますが、こういった大きな劇場のフェスティバルの場合、オペラを聴くものだと認識してない人たちもいるので、閉めるタイミングも音楽優先で考えてもらいたいものです。

 カーテンコールで出てくる順がオクタビアン役のコジェナーが最後だったのは、それまで元帥夫人役が最後に出てきた公演ばかりだったので、少々違和感があったのですが、タイトルロールという意味ではオクタビアンが最後なのだと納得しました。しかし、主役はハルテロスだったという印象が残った公演でした。

 作品の流れの美しさを堪能できたベルリンフィルの上質さではありましたが、ドイツの人たちにとっては新鮮味がないのか?劇的な印象が希薄なのか?いずれにせよ最上階の空席の多さが気になった公演でもありました。


アンナ ボレーナ・・・OPERNHAUS ZÜRICH・・・2015/3/29 [オペラ]

Musikalische Leitung Andriy Yurkevych
Inszenierung Giancarlo del Monaco

Enrico VIII Luca Pisaroni
Anna Bolena Anna Netrebko
Giovanna Seymour Veronica Simeoni
Lord Rochefort Ruben Drole
Lord Riccardo Percy Ismael Jordi
Smeton Judith Schmid
Sir Hervey Yujoong Kim
Annas und Enricos Tochter, die spätere Elisabeth I Jil Galatoire

DSCF7375(1).jpg

 これまでは何を歌ってもネトレプコはネトレプコと思うことが多かったのですが、今回は違いました。ベルカントものは歌わないほうがよいとも思ってましたが、全てを一緒にするもの良くないとも納得。役に合う合わないは声楽面で当然あるでしょうが、聴く前からアンナ・ボレーナは合うような気がしたのは物語としてアンナ・ボレーナの生き様、死に様を考えるとき、ネトレプコの声の美しさと重なるからです。ネトレプコは花にたとえると椿、それもたっぷりと肉厚のベルベットのような花びらをもつ深紅の大輪、その散り際とアンナ・ボレーナの死が重なるのは言わずもがなであります。

 今まで苦手と思ってしまうところもあったのですが、それはイメージと重ならなかったり、歌っていて力まかせで少々無理があるように感じるときがあったことでした。桜のマネして無理に花弁を落としても重い花弁が風には舞うことはなし、ルチアやエルヴィラを歌うことを疑問に思っていた人は少なからずいたに違いありません。それでも声に合った役柄にシフトしているという点はネトレプコのスマートなところで(体型は別にして)今後いろいろと興味を持って聴く機会は増えそうです。このアンナ・ボレーナもこのチューリッヒの後ウィーンを残すだけなのかもしれません。
 聴いてみて実際に良かったのですが、その良さは想像していたのとは異なるものでした。聴く前はもっと重い情念のような凄みが出るのかと思っていたのですが、落ち着いた品のある美しさで女王の誇りを伝えていたので、新たな魅力を発見したような気がしました。
 Al dolce guidamiを歌う前にスカートの裾がオケピにかかるほど前に出てきてゆっくりと客席を見渡し、丁寧に歌そのものをいとおしむように歌われたコロラトゥーラの美しさは、この役を歌うのは残りわずかという思いと、女王の残りわずかな命とが重なったような気がしました。自然体で何の力みも感じられないときのネトレプコの魅力は素晴らしいものがあります。最後に王とその愛人の前でゆっくりとひざまずき、断頭台に首を置くようにかがんだ潔さが印象的でした。
 狂乱の場といっても、あくまで女王の品格ある美しさを保つという役作りだったことに物足りなさを感じる人もいたかもしれませんが、演出家の意図かもしず、素のままの美しさと思えた歌と役作りは好感が持てるもので、この役をもう歌わないとしたら、もったいないとさえ思えたのでした。


 他の歌手の人たちも好演で、ピサローニはレポレッロのときとは声が違うと思うほど傲慢な凄みを出していてヘンリーのイメージどおり。
 パーシー役のジョルディは見た目も声の張りも若々しく、若手かと思ったのですが、既に各地のオペラハウスで活躍している実力者でした。熱血漢といった役作りは緊張感があり好印象でした。

 問題は演出が前半、後半ともセット替えのために2回ずつ途中に幕が下りて中断があったことで、その度に照明が明るくなり、どうしても客席がざわついて緊張感が途切れてしまいます。もともとアリアの後に毎回拍手するような劇場ではないので、前半はまだしもだったのですが、後半は聴きどころのアリアも多く、拍手の機会もあり、ブチギレ状態で公演全体の印象は今一つになってしまいました。
 衣装はアンナ・ボレーナというよりも時代的にオーストリア皇女エリザベートを連想する衣装でしたが、子供であるエリザベスが登場する演出で、その衣装の襟が当時の肖像画と同じだったのが不思議な感覚でした。親子で同じ名前というのを意識したのか?衣装と断頭台とでは時代が合わないとか、エリザベスは実母には育てられなかったはずとか、ツッコミどころではありますが、子供であるエリザベスが大切に抱えている人形の衣装が、一緒にいる母親の衣装といつも同じだったことが母親を慕う娘の気持ちを表していて、実際のエリザベスも母親のことを慕っていたに違いないと思わされるものでした。
 ただ子供が出てくる演出は「また」で、この頃になると禁じ手にしてやりたいと思うくらい。どうしても子供が登場するだけでほだされるではありませんか?

 指揮はリセウのアンナ・ボレーナと同じユルケヴィッチでしたが、リセウでは上手く歌をつないで雄弁かつ緊張感を保って良かったのですが、ぶつ切り演出のせいか否か?今回は凡庸としか思えませんでした。



メッセニアの神託・・・神奈川県立音楽堂・・2015/2/28 [オペラ]

音楽監督・ヴァイオリンファビオ・ビオンディ Fabio Biondi
演出 彌勒忠史
出演  マグヌス・スタヴラン(テノール)、マリアンヌ・キーランド、ヴィヴィカ・ジュノー、
マリーナ・デ・リソ、ユリア・レージネヴァ、フランツィスカ・ゴッドヴァルト、
マルティナ・ベッリ(以上メゾゾプラノ)
演奏  エウローパ・ガランテ(管弦楽)

 神奈川県が誇る県立音楽堂60周年の企画ということですが、なんとも高品質な公演を企画したものです。

 演出はいたってシンプルな和のイメージでしたが、衣装も美しく、幕の代わりに襖を人が持ちながら移動するという暖かな手作り感も素敵な秀逸なものでした。

 もちろん一番の充実ぶりは音楽面で、ヴィオンディ率いるオイローパガランテの演奏と歌手の素晴らしさは本場欧州でもこれだけのものはそうそう味わえないであろうと思われました。
 特にレジネヴァは聴くたびに声の豊潤度が増しているのが実感できるものでしたが、これほどのアジリタ三昧を聴くのは初めてで、力と技術と両方がバランスよく確実に成長していて今後がますます楽しみです。
 ジュノーも数年前に聴いた『チェネレントラ』以来で楽しみにしていた一人でした。今回はそれほど技術を駆使する役ではなかったものの、主役として気持ちの入ったパフォーマンスで聴けて嬉しかったです。
 他の歌手の人たちも素晴らしく、コンサート形式でも満足感は得られるであろう内容ではありましたが、演出があることで歌手の表情、動きにも真実味が増し、歌合戦だけでない味わいをもたらしてました。小道具として扇を使って拒絶の意思を示したり、大柄なテノールのスタヴランが狂言の動きのようにかがんで降参したり、和の動きとバロック音楽の調和の妙を味わうことができました。音楽はバスタッチョといって、いろいろな作曲家の作品をヴィバルディが組み合わせて一つの作品に仕上げたものだそうですが、音楽だけ聴いていると別々感があっても、演出によって統一感がもたらされていた気がしました。

 今回の和とバロックの組み合わせはエクスアンプロヴァンスで観た『エレナ』を思いださせるものでした。『エレナ』は日本だけでなく、東洋風、中近東風、欧州風ともっとグローバルな趣でしたが、異文化の組み合わせはまだまだ他にも可能性がありそうです。
 そして実際にこの後様々な異文化の組み合わせに遭遇することとなったのでした。



さまよえるオランダ人・・・新国立劇場・・2015/1/31 [オペラ]

指揮 飯守泰次郎
演出 マティアス・フォン・シュテークマン

ダーラント ラファウ・シヴェク
ゼンタ リカルダ・メルベート
エリック ダニエル・キルヒ
マリー 竹本節子
舵手 望月哲也
オランダ人 トーマス・ヨハネス・マイヤー
合 唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京交響楽団

 メルベートはバイロイトで同役で聴いたのですが、今回のほうが良かったと思えたのは演出のせいもあるかもしれません。この日のゼンタのバラードは内面から湧き出る熱い力がありました。
 演奏は10月のパルジファル同様に冗長に感じるときもあるのですが、このメルベートの力を引き出していただけでも上々に思えました。
 タイトルロールのマイヤーは性格俳優といった良さをいつも感じるのですが、以前パリでヴォータンを歌っていたころに比べるとなんとなく声量が控えめに思えたのは、体格もスマートになっているようで、ワーグナーを中心に歌うとしたら体格アップしてもよいのでは?という気もしたのでした。

 何年か前に聴いた同じプロダクションより、全体的にチームワークよくまとまっていて好印象でした。

チェネレントラ・・・OPERNHAUS ZÜRICH・・・2014/12/31 [オペラ]

BLOG7529.JPGMusikalische Leitung Giancarlo Andretta
Inszenierung Cesare Lievi
szenische Einstudierung Claudia Blersch
Bühne und Kostüme Luigi Perego
Lichtgestaltung Gigi Saccomandi
Choreinstudierung Ernst Raffelsberger

Angelina, genannt Cenerentola Cecilia Bartoli
Don Ramiro, Prinz von Salerno Lawrence Brownlee
Dandini, sein Diener Oliver Widmer
Don Magnifico, Vater von Clorinda und Tisbe Carlos Chausson
Tisbe Liliana Nikiteanu
Clorinda Martina Janková
Alidoro, Philosoph, Don Ramiros Lehrer Shenyang
BLOG7530.JPG

 大晦日にバルトリを聴くのは2回目。前回は一昨年の『オリー伯爵』でした。
 アジリタなどの技術を要する箇所は声質が変わったり、声量が落ちる傾向があると思うのですが、バルトリはなんら変化することなく、こともなげにスムーズに歌いこなしてしまうのですから聴いていて心地よいことこの上なし。さらに、その歌唱技術だけではなく、公演全体がまとまっていつも完成度が高いところも素晴らしいところです。

 ただし今回感じたのは、いくら素晴らしくてもお聞き通し感というのはでてくるということ。数回聴いているうちに、初めて聴いたときの感動は得難くなってきてしまいます。

 そんな中、最近演出の重要性を認識しつつあります。今回の演出は凡庸すぎる感があり、そのせいもあって以前ミュンヘンで同役で聴いたことのあるブラウンリーは前回と同様、上手に歌ってはいるのですが、声の芯が細く、声がそれほど大きくないバルトリよりもさらに一回りコンパクトな印象しかもてませんでした。演出に何か意外性があればまた違った印象になる可能性もあったかもしれませんが、前回と似たり寄ったりの凡庸な演出では教科書どおりきれいに歌っていても何か物足りなさを禁じえませんでした。

 音楽面では重唱のSiete voi?で部分的に巻き舌を普通より強調するなど面白さを出す工夫もあり、満足感はあっても、意外性、新鮮さといった面が希薄だったのは否めません。

 凡庸な演出は今時4回転ジャンプのない男子フィギュアスケートのようなものです。


ルイーザ・ミラー・・・OPERNHAUS ZÜRICH・・・2014/12/30 [オペラ]

Musikalische Leitung Carlo Rizzi
Inszenierung Damiano Michieletto
Bühnenbild Paolo Fantin
Kostüme Carla Teti
Lichtgestaltung Hans-Rudolf Kunz
Choreinstudierung Jürg Hämmerli
Philharmonia Zürich
Chor der Oper Zürich

Il conte di Walter Vitalij Kowaljow
Rodolfo, sein Sohn Ivan Magri
Federica, duchessa d'Ostheim, Walters Nichte Judith Schmid
Wurm, Walters Schlossverwalter Wenwei Zhang
Miller, Soldat im Ruhestand Leo Nucci
Luisa Miller, seine Tochter Elena Moşuc
Laura, eine Bäuerin Hamida Kristoffersen
Ein Bauer Spencer Lang
BLOG7531.JPG


 ヌッチを聴く機会は3回目ですが、1回目は酷い音響に悩まされた上に演奏が速く、ほとんどやっつけ仕事状態、2回目はボロボロの田舎のドサ周り座長公演になってしまって、この3回目にして初めてまともな公演だったということでホっとしました。
 モシュクも田舎のドサ周り座長公演で一緒でしたが、2人とも当然のようにドサ周り座長公演とは全く異なり、歌いたい放題ではなく、指揮者中心の緊張感のある公演で、田舎でも同じような姿勢で臨んでほしかったものだと思わざるをえませんでした。
 でも郷に入らば郷に従え、田舎は田舎の楽しみ方に合わせただけという見方もあるので、田舎で鑑賞するのはやめたほうが良さそうという結論にいたり、こうして無理してでも都会を目指している田舎者の[猫]です。

 そういったことはさておいても、ヌッチにしろモシュクにしろ複数回聴いているとお聴き通し感というものはあるので、この二人が出演するからといって鑑賞したいと思うことはありません。ましてあまり好きではないヴェルディ、話もシラーの文学作品とはいえ、文章で読むのとは異なり、オペラになってしまうと "単純な若造がプッツンして恋人を殺すというバカバカしい話" となりそうです。それを何故見に行ったかというとこの日他にめぼしい公演がなかったことと、演出がミキエレットだからでした。

 ところが、この "単純な若造がプッツンして恋人を殺すというバカバカしい話" を "純粋な若者がその純粋さゆえに誤解から恋人を殺めてしまった悲劇" としたのがロドルフォ役のマグリ。声質はレッジェーロで声量はオケが鳴ると沈みがちになってしまうとはいえ、純粋な青年の心理をよく表現していて演技もよかったのです。

 しかし、見に行った理由であるミキエレットの演出は今一つ。やはりどんな演出家も良い作品もあれば、良くないと思えてしまうものもあるものです。いつものように観客に想像の余地を与えるという工夫はあって、子供を登場させることによって2組の親子の歴史を思い浮かべることはできるのですが、手法はこの子供を起用することをはじめ、映像を使用したり、歌っている人以外はフリーズしたりと、いろいろな公演の良いとこ取りを無理やり詰め込んだような散漫な印象を残すものでした。重唱はこれぞイタリアオペラという伝統の一列横並びだったのも、他の部分が現代的な手法なのに前世紀の遺物を取ってつけたような違和感が・・・・・無理やり良く言えば、今どき三輪トラックを見かけるようなノスタルジックなよさがあったというところ。
 この物語のポイントは善良な親子が何の非もないのに被害者になってしまうことだと思うのですが、いくらヌッチが嘆き節を聞かせてくれても、演出はそこに焦点をあてきれてない印象でした。
 しかし、それもカーテンコールの様子でなんとなく理解できたような気がしてます。ここチューリッヒはモシュクの本拠地ともいってよい劇場であり、悲劇性を際立たせるというよりタイトルロールであるモシュクを華やかに美しく見せるための演出といったところで、カーテンコールでもモシュクが華でした。
 ということで、ご贔屓公演といった側面も感じましたが、決して「指揮者は歌に合わせてなんぼ」というだけの歌合戦ではなく、チームワークよく一体感はあったのでそこそこの満足感はありました。

 それにこれは初演ではなく再演とあって、ミキエレットの意図がどれほど残っているか定かでないことを考慮しなくてはならず、一概にミキエレットの演出を批判するのも的外れなのでしょう。


 尚、悪役ヴルムのキャラにツッコミどころがあったのは[猫]にとってはありがたいもので、額の形がドラゴンボールに出てくるベジータと一緒で、なぜ『ルイーザ・ミラー』にベジータがおる?と思ってしまいました。首の不気味な動かし方などは役者の西村雅彦のようで、いい味の悪役キャラ、歌のほうも文句なし。

 そういえば以前ここで観た『オリー伯爵』でカマレナが太った亀仙人のようだったこともありましたが、隠れドラゴンボールZキャラを探せ!というコンセプトで複数の公演を制作するのも面白そう、などと少々不埒な発想にまで及んでしまったのでした。

 的外れな見方であろうが、どこかに新鮮さ、面白さがあればヴェルディでもそこそこ楽しめるものです。



ジルベスターコンサート・・・Berliner Philharmonie・・2014/12/29 [コンサート・リサイタル]

BERLINER PHILHARMONIKER
SIR SIMON RATTLE Conductor
Menahem Pressler Piano

Jean-Philippe Rameau Suite from Les Indes galantes
Wolfgang Amadeus Mozart Piano Concerto in A major K. 488
Zoltán Kodály Háry János Suite (Excerpts)
Antonín Dvořák Slavonic Dances (Selection)

BLOG7533.JPG

 前日到着したときには寒くても雪はなかったのに、朝起きたら一面真っ白でした。

 ベルリンフィルのジルベスターは2回目ですが、今回は妖精のようなおじいちゃんがヒョコヒョコッと登場して優しいピアノの音色に会場は満たされ、その余韻はおじいちゃんがヒョコヒョコッと帰ってからも残り、妖精のジルベスターといったところでした。
 考えてみると、初めてのジルベスターではバルトリを前座呼ばわりするという不届き千万な感想でしたが、何回か聴いたことのあるバルトリよりも初めて聴くベルリンフィルが強く印象に残ったのであって、今回は初めて聴く妖精のようなおじいちゃんの印象がいつまでも残ったのでした。
 妖精のおじいちゃんのお名前はプレスラーさん、御歳93歳とのこと。1世紀以上元気にご活躍いただいて、まだまだ感動を多くの人に伝えていただきたいです。


トリスタンとイゾルデ・・STAATSOPER IM SCHILLER THEATER・・2014/12/28 [オペラ]

MUSIKALISCHE LEITUNG  Daniel Barenboim
INSZENIERUNG  Harry Kupfer

TRISTAN  Peter Seiffert
KÖNIG MARKE  René Pape
ISOLDE  Waltraud Meier
KURWENAL  Roman Trekel
MELOT  Stephen Chambers
BRANGÄNE  Ekaterina Gubanova
EIN HIRT | STIMME EINES JUNGEN SEEMANNS  Florian Hoffmann
EIN STEUERMANN  Maximilian Krummen
BLOG7534.JPG

 リンデンが改修工事に入ってからリンデンでワーグナー漬になる機会を失って久しく、ここシラーでワーグナーを聴く機会もなく時が過ぎてしまってました。こうもりだのヘングレ、たまにボエームといった季節ものだらけの年末年始にこのトリイゾがあったのは幸運と思えたのですが、そのためにスカラの『フィデリオ』は年末年始前に終わってしまったのですから、2兎を追えなかったのは残念な気もしたのでした。

 それにしてもシラーはワーグナーにはどう考えても小さく、鳴りすぎを抑えて編成数を減らせばバランスよく各楽器数を減らすことは不可能なのでオケのバランスが崩れる。オケのバランスを考慮すれば鳴りすぎになる。どちらにしても批判を言う人はいるだろうと思われ、どうするのかと思っていたら、なんとオケピをバイロイト方式にして観客席側には音があまり飛ばないように上部が舞台側に湾曲している壁を作るという工夫がしてありました。そのため指揮のバレンボイムが入ってきたのも見えず、客席が暗転して拍手のないまま演奏がはじまりました。
 セットである天使はリンデンでは余裕で舞台の中央に納まっていたのに、シラーでは端から端まで羽があってシラーの小ささを改めて目の当りにしながらの公演でした。
 オケピから流れ出る音はリンデンのときは渦を巻くような流れを感じるものでしたが、シラーでは頭上に降り注いできても流れるような感覚がないのはデッドすぎるせいかもしれません。劇場の小ささは歌手にとっても声を響かせるのに十分なものでしたが、リンデンのときよりも歌い崩すように歌う場面が散見されたのは歌手が浴びる音は客席側よりも大きいので、声を出しやすいように歌っているのかと思われたのですが・・・・どうもそれだけではなさそうな、ただならぬ緊張感を徐々に感じたのと同時に、マイヤーかザイフェルトのどちらかが歌わないようになったらこの溺れそうなトリイゾはもう聴けなくなってしまうのかという考えも浮かんできてしまったのでした。
 そして一幕終了後にマイヤー&ザイフェルトがカーテンコールに出てきたとき、マイヤーがぐるっと観客席を見渡す姿に、もしかして???という予感は予感だけではなさそうだと気づきつつ、それを頭の中で否定しようとする自分もいたのでした。
 歌手の人たちの渾身のパフォーマンスは、後になって思えば、マイヤーがイゾルデをベルリンで歌う最後の公演を最高のものにしようというものに違いありません。
 『愛の死』を歌うマイヤーの姿があまりに美しく、最後に倒れたときは本当に死んでしまったと涙がでました。

 最後のカーテンコールで予感したとおりセレモニーがあり、マイヤーがベルリンで歌う最後のイゾルデだったということをはっきりと告げられたのですが、バレンボイムから「あなたはどう歌おうか、どう演じようか考えてはいなかった。あなた自身がイゾルデなのだから。」とメッセージがあり、本当にその通りと思ったのでした。
 予想していなかった事態に喪失感が大きく、この公演に接することができたことを幸運と言うのも複雑な気がしましたが、誰でも何事にも最初があり最後があるものです。ベルリン最後のイゾルデに立ち会えたことは幸運以外のなにものでもないでしょう。